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トメアスーリポート10 我らが大地トメアスー

トメアスー文化協会の乙幡敬一会長によると
現在のトメアスーの人口は約6万人。そのうち学生の数が2万人。
日系人は300家族1500人が住んでいるということです。
高齢化も進み70歳以上の方は140人を超えました。

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●(写真)文協の乙幡会長と。ベレンでの新年会での私のライヴパフォーマンスを誉められ恐縮。

理事の方たちは、お仕事もしながら文化協会の運営もしているので大変です。
クリスマスなどのイベントの他、
ビジネスとしての農業教育にも真剣に取り組んでいます。
その結果がアグロフォレストリーという環境に優しい農法に結びつきました。
積極的にワークショップを開いて農業の勉強をしてきたのです。

トメアスーの街をよくするために文化協会が尽力してきたため
犯罪件数も20年前に比べてぐっと減ったそうです。
パトカーが12台もある地方都市はなかなかありません。

文化協会で、ジュース工場で、胡椒の畑で、農作物の倉庫で、
あらゆるところのあらゆる人たちからトメアスーに対する郷土愛を感じることができました。

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●(写真)トメアスー市内の風景。犯罪件数の多いブラジルとは思えないほどのどかだ。

2010年の8月、マナウスにある近所の教会で
トメアスーから来たという女性と知り合いになりました。
その後すぐにネグロ川を渡ったベラビスタ移住地の盆踊りでも再会し、
2011年1月ベレンで行われた日本語教師の合同研修会でも
再びお会いすることができました。
今回のトメアスー滞在で泊めていただいたのがその方、三宅昭子さんです。

昭子さんは1962年20歳でブラジルに渡り、
渡伯後半年で結婚しました。
ブラジルに渡ってすぐにマラリヤにもかかりました。

同じ船で日本から来た姉のように慕う方をマラリヤで亡くし、
その2ヶ月後婚約者の父も56歳の若さで命を落としました。
また結婚後半年後には14歳の妹が自殺と
ブラジルに渡ってわずか1年で近親者を3人も失ったことになります。
ブラジル行きの船の中でいただいたという聖書を宝物のように大事にして、
そこから生きる力をもらっていたのだそうです。

自宅では娘の竜子さんと一緒に日本語教室も開いています。
竜子さんは、マナウスの西部アマゾン日伯協会で教えていた経験もあり、
現在はトメアスー市内のABC幼稚園の園長先生でもあるのです。

三宅家の広い庭には熱帯の植物がずらりと並んでいます。
丁寧に育てられた庭の作物が食卓に並びます。
昭子さんが趣味で続けている俳句は、
いろいろな大会で受賞するほどの腕前。
棚にはトロフィーが所狭しと並んでいます。
お亡くなりになったご主人は、大工さんをしていたとのことで
裏庭には当時の作業場が残っていました。
機械類はすべて売ってしまったそうです。

私の父方の祖父は、教会の牧師をしていたため、
祖父母は長野や三重の伊賀上野など日本各地の牧師館を転々としていました。
また、母方の祖父は天竜市で製材業を営んでいたので
祖父母の家の前には大きな製材工場がありました。
教会の匂い、製材工場の匂い。
トメアスーにいると自分の幼いころの記憶が猛烈に蘇ってきます。
日本の数10年前の匂いがいまだに残る素敵な街なのです。

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●(写真)手入れの行き届いた庭にはカメが放し飼いになっている。

昭子さんが奥からゴソゴソと何かを持ってきました。
それは、ある方が書かれたトメアスーの歌が載った楽譜でした。
残念ながら私は楽譜が読めません。
もうひとつの楽譜にはコードが載っていたので、
私のギターに合わせてこちらを一緒に歌うことにしました。
「ブルーシャトー」という古い日本の歌謡曲に昭子さん自身が歌詞を書いたものです。

実際は3番まで歌詞があります。



夢と希望と憧れを
胸に抱いてアマゾンへ
緑の地獄と呼ばれし奥地
言葉、衣食住、病気、習慣

わが先人は耐え抜いて
豊かな大地を勝ち取りぬ

涙で頬も濡らしたでしょう

互いに励まし信じあい
耕し続けた
花胡椒

我らが大地トメアスー

わずか1泊2日の短い旅で
82年もの歴史がある街について書くのは少々無謀でしたが、
私はあっという間にその魅力に取りつかれてしまいました。
トメアスーの凄さは住民から溢れるエネルギーにつきます。
いつかまたゆっくりトメアスーを訪れてその歴史にどっぷり浸かりたいと思います。

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●(写真)ジャッキー三宅とトシミコメッツ。歌はブルーシャトートメアス編。テイク3!
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by amazontoshimin | 2011-07-25 09:16 | 日系社会のおはなし

トメアスーリポート9 一発CAMTAくん!

畑でアサイーやカカオ、胡椒の話をお聞きした時、峰下さんが言いました。
「CAMTAができてから農業もだいぶ楽になったねえ。
作物を出荷しても全部引き取ってくれる。作った分全部ですよ。」
ん?CAMTAってなんでしょう。(その昔「一発貫太くん」ってアニメがありましたが…。)

CAMTAというのは
「Cooperativa Agricola Mista de Tome-Acu(トメアスー総合農業協同組合)」のことです。
現地で栽培されているマラクジャ、アセロラ、アサイーなどのジュース工場もあり、
その製品はブラジルだけではなく日本にも出荷されています。

わたしは日系ブラジル人の人口が日本で最も多い静岡県浜松市の出身です。
駅前にあるブラジル食材店をよく利用していたのですが、
その店で飲んでいたアサイードリンクも
このCAMTAのジュース工場で作られたものだと知って感動しました。

工場を案内してくださったのは佐伯さん。
戦前、アマゾナス州パリンチンス市の奥ビラアマゾニアで
ジュート栽培を成功させた高拓生の子孫のかたです。

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●(写真)CAMTA代表の佐伯さんと。手にしているのは日本で飲んだアサイードリンク。

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●(写真)次々に絞り取られるパイナップルの果汁。いろいろな熱帯果樹に対応できる。

ちょうど工場では、収穫されたばかりのアバカシー(パイナップル)が
ラインに乗っていました。
搾りたての生パインジュースの美味しいこと!

峰下さんが畑でおっしゃっていたように、
収穫された農作物をこの工場でジュースに加工することで、
作物を余らせたり腐らせたりすることはないのだそうです。
このジュース工場ではクプアスー、マラクジャ、グアバーなどのジャムも
作られていてブラジル国内のスーパーやショッピングセンターで購入することができます。

2011年3月に、
日本の明治製菓から「アグロフォレストリーチョコレート」が発売されました。
パッケージには「ブラジルトメアス産限定カカオ豆」と書かれています。
世界恐慌の年に海を越えてやってきた日本人の子孫が、
82年後に日本国中で地球の反対側から農作物を供給しているのですから驚きます。

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●(写真)3月に発売されたアグロフォレストリーチョコ。パッケージだけだったのが残念。

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●(写真)ジャムにバターにオイル。いろいろなところに可能性が転がっている。

トメアスーに来る前、ベレンで、ある日系人女性にインタビューしました。
トメアスーの魅力はフルーツが美味しいところと笑う彼女の名前は野沢エリーナさん。
ブラジルで生まれた後、愛知県蒲郡市で20年間過ごしました。
現在はトメアスーに戻って日本語教師をしています。
自分の故郷はどんなところだったんだろうと思い、
1年前に母親と一緒に帰ってきました。

日本語で生徒と会話をできることが楽しく、
非日系のブラジル人が一生懸命日本語を勉強しているのを見ると嬉しくなるそうです。
先生の数が足りなくて教材作りが大変だったりすることもありますが、
明るくがんばっています。
彼女をがんばらせているのは、
親戚のおじさんの「人間ひとりひとり光るものが違うんだ。」という言葉です。
自分も自分だけの光るものを見つけていきたいと語ってくれました。
その親戚のおじさんは、トメアスーでカカオの栽培をしています。

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●(写真)日本語教師野沢エリーナさんと。生徒は非日系人が多いという。

話をCAMTAに戻しましょう。
現在CAMTAではジュース加工、ジャム製造の他に
クプアスーのバター、マラクジャのオイル、アンジローバのオイルなども生産しています。
今まで廃棄していたものからこれらのオイルが取れ、
化粧品などに流用可能だということがわかったからです。また新たな可能性が広がりました。

一方、以前「黒いダイヤ」と呼ばれていた胡椒は、
文化協会の前にある倉庫に山積みにされています。
保存が効くため、組合員は必要になったときにそれを売るのだそうです。
まるで銀行預金のようです。

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●(写真)倉庫に山と積まれた黒胡椒に白胡椒。いざという時の貯金。やはり黒いダイヤは健在。
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by amazontoshimin | 2011-07-25 08:59 | 日系社会のおはなし

トメアスーリポート8 ピメンタとアサイーとカカオ

元組合長の峰下興三郎さんの畑では、
胡椒・カカオ・アサイーが同時に育てられています。
アグロフォレストリーと言われる新しい農法です。
背の高いアサイーの陰にカカオの木を植えて、
カカオの木と木の間に胡椒を植えています。

胡椒の単作だけではなく、数種類の作物を混作することによって、
収益も安定しますし、農地も有効に活用することができます。
このアグロフォレストリー農法は、
環境保護や継続的な農地利用の点でも注目を集めています。
峰下さんはブラジル人労働者も二人雇って、
これらの作物を栽培しています。
広大な畑の周りは鋭いトゲのある草でおおわれています。
アサイーの取り入れの時期になるとどこからともなく畑泥棒がやってくるのです。

「こうやってね、畑の木の一本一本、状態を見てやるのがなにより楽しくてねえ。
でも畑が広いから回りおおせないんだよ。」
と剪定に余念がない様子です。
にこにこしながら本当に嬉しそう。
隣には番犬が寝転んでいます。なんとものどかな風景。
水はけのあまりよくないこの土地は、アサイーの栽培には不向きだったのですが、
峰下さん自ら排水溝を作って水が逃げるように工夫したのだそうです。

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●(写真)収穫前の胡椒の実とカカオの実。
アマゾンの光を浴びてどちらもパンパンに詰まっている。


「アグロフォレストリって言葉がありますが、
どれだけの面積に何と何を植えたらよいという明確な答えはまだ出てないんです。
毎日が研究ですよ。カカオは食べたことがありますか。」

そう言って、目の前で大きなカカオの実を割って中身を食べさせてくれました。
種の周りにある白くてねばねばした果肉の甘さが口の中に広がります。
乾燥させたあとにチョコレートのために使うのは硬い種の部分。
説明を聞かせていただきながら、大きな畑を車で一周して庭に戻ってきました。

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●(写真)カカオの実。腰に差した山刀で割ってくれた。

収穫した胡椒の実が青いシートの上に干してありました。
若い胡椒の木も庭に並んでいます。

「こちらが今年植えた苗でしょ。
それからこちらが去年の苗。
実がいっぱいついているのがあるでしょ。でも長さが足りない。
長くて実がついてるもの、両方よくばりたいけどそうはいかないんですよね。
なんでもいいものなんてなかなかできないんだよ。」と笑いました。

峰下さんは石川県で働いていた経験があります。
畑の面倒は長男に任せて、出稼ぎ者として、
カニかまぼこを作る工場で働いていました。
トメアスーの冬の時代、多くの人たちが日本へと出稼ぎに行きました。
「石川県は海の食べ物がおいしかったでしょう。」と聞くと
「一人暮らしの出稼ぎ者だから、あんまり贅沢はしなかった。
日本はいいね。一人暮らししてもおかずに不自由しないもんね。
スーパーにいくといろいろ売っているでしょ。」と答えてくれました。
「また来てくださいね。」と言って畑に戻った峰下さん。

実は熱帯作物専門家として
ドミニカ共和国に派遣された経験もあるすごい方なのです。

トメアスーの土地にこだわり続けて生活しています。

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●(写真)庭のシートの上で乾燥させている胡椒の実。この時点ですでにものすごい辛さだ。


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●(写真)「あんまり大きくない畑だもんで恥ずかしいだけどね。」って
謙遜して言いますがとても大きい畑なのだ。

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by amazontoshimin | 2011-07-25 08:39 | 日系社会のおはなし

トメアスーリポート7 トメアスーの歴史を聞く③

~社会・経済の変化~

「第2トメアスーの研究」
日本政府の海外移住振興政策により第2トメアスー移住地が建設されました。
1962年に第1陣が入植しました。

「胡椒の病害と作物の転換」
1970年代から胡椒の病害が蔓延し、
多くの人々が新しい胡椒栽培地を求めてゆきました。
また胡椒の探索農業が反省され、カカオやマラクジャが盛んに栽培されました。

★1970年代中頃、ピメンタの景気は終わってしまいます。
フザリオウゼという病気が大流行したんです。
でも負けるわけにはいきませんからいろいろなことに挑戦しました。
第3トメアスーを建設しよう。ピメンタももう一度栽培してみよう。
熱帯果樹のマラクジャやクプアスも植えてみよう。
それだけでなく、移住後、一番最初に植えていたカカオにももう一度挑戦してみようと、
バイア州産の持ち出し禁止だったものを何とか交渉して栽培しました。

トメアスーというのは日本人家族1000家族を目指していたんですがね、
目標に到達することなく80家族程度で終わってしまいました。
今残っている人たちは隣の耕地を買い取って自分の土地を大きくしていますよ。


~明日に向かって~

「インフラの整備と近代化」
陸の孤島だったトメアスーにも道路が通じ、
電気・電話等のインフラが整備されていきました。
1979年には入植50周年祭も盛大に行われました。

「世代の交代」
近年のトメアスーでは世代交代が目覚ましく
今日では日系2世が中心となって組織運営や農業の確立に取り組み、
トメアスーの明日を築きつつあります。

★60周年の記念に寄宿舎を建設したんです。
一階が日本語教室と日本語学校。二階を男女の寄宿舎にしたんです。
でもね、完成したころ通学バスがトメアスーの奥のほうまで開通してしまった。
だから使う生徒は少なかったですね。
ホテルの代わりに寄宿舎に泊まる人が多かったです。
研究者や旅行者など2000人以上が使用しましたよ。

今思うと70年代後半ピメンタ景気に浮かれて、
後に残らないようなお金の使い方をしてしまったと思いますね。


~トメアスー農業のあゆみ~

「開拓初期のころ」
開拓初期にはカカオが植えられました。
しかし熱帯地域での農業に不慣れなため、うまくいきませんでした。
そこで米や野菜を作りベレンで販売しました。

「胡椒栽培の発展」
第二次世界大戦後は胡椒栽培が盛んになり、
最盛期には5000トン以上生産される産業へと発展しました。
長くトメアスーの中心作物でしたが、病害が栽培に大打撃を与えました。

★昔は、ブラジルには結球するような葉物の野菜、
つまりレタスやキャベツなどはなかったんですね。
現在、ベレンはブラジルの中でも野菜の消費率が高いんです。
野菜を食べる人が多いんですよ。

それはアマゾンでは絶対に育たないと言われていた野菜を
研究に研究を重ねて日本人が栽培して、
その食べ方をブラジルのひとたちに教えたということなんです。


~トメアスー総合農業協同組合ジュース工場~

「CANTAのジュース」
現在、工場ではマラクジャ・アセロラ・クプアスー・アサイ・
グラビオーラ・タベレバー等のトロピカルジュースを製造しています。

「ジュースのできるまで」
生産者が収穫した原料はその日のうちに工場に集荷され、
洗浄・搾汁・冷凍処理されます。出来上がった製品はベレン等で販売されています。

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●(写真)丁寧にわかりやすく説明して下さった角田さんと資料館の入り口で。
機会があったらぜひ訪問していただきたい。



博物館を見学した後に角田さんが見せてくださったのは
「アカラ植民地英霊録」と書かれた一本の巻物でした。
1929年の入植以来、この地で亡くなったかたの名前と年齢、
お亡くなりになった理由が書き添えられています。
年齢を見ると生後わずか数カ月、数年で命を落とした子どもたちが多く、
先人たちがアマゾンの厳しい気候やマラリヤなど
熱帯特有の病気と壮絶に戦ってきたことが伺えます。

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●(写真)熱帯の地で命を落としたひとたちの記録「アカラ植民地英霊録」
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by amazontoshimin | 2011-07-25 07:52 | 日系社会のおはなし

トメアスーリポート6 トメアスーの歴史を聞く②

~経済の発展~
「胡椒の大高騰」
育成・増殖されていた胡椒の価格が戦後大高騰。
50年代前半のトメアスーは胡椒景気に沸き、多くの「ピメンタ御殿」がたちました。
開拓25周年記念祭も盛大に行われました。

「躍進する組合事業」
1949年産業組合は総合農業協同組合として公認化され、販売体制を整えました。
組合事業は大発展し、農事試験場、病院等が運営され、地域発展に貢献しました。

★戦前の話ですが1930年代に臼井牧之介さんが移民監督官として
シンガポールから南洋種のピメンタ(胡椒)の種を持ってきて
トメアスーの試験場に植えてあったんですが、
実は誰もそんなことは忘れてしまっていたんですよ。

終戦直後にね、加藤さん斉藤さんって方たちが大事に育てたそのピメンタを
ベレンに売りにいったんです。

「お前たち!どこからそれを盗んできたんだ!
こんなもの(胡椒)がアマゾンで獲れるわけないじゃないか!」

「いや、トメアスーってところの畑にはいっぱいあるんだよ。」

「なに?全部買うからあるだけ持ってこい!」

そして高い値段で取引されることになったんですね。
この当時は60人くらいの組合員がいたんですが600トンくらい獲ったんです。
突然ね、何億円もの金が入ってきたんです。
1950年代初頭、100万円で家が帰る時代にですよ、
何千万円もの大金を手にしたんですからね。
あばら家はピメンタ御殿と呼ばれる大豪邸に変わりました。

日本人移民の中心地は十字路という交差点付近なんです。
東西南北ほぼきっちり作られているんです。
(北はベレンに続く南北線が2度ほどずれている)
この十字路に文化協会(文協)があり、野球場があり、3階建ての建物もありました。
木造の会館では演芸会や映画会も行われましたよ。
大きな映写用のカメラは日本から運んできました。
みんな農業をしていましたし、家を空けるわけにもいきませんから
交代で映画を見ていましたね。

レコードやギターはサンパウロから手に入れました。
(展示されている野球大会の優勝旗は手作りだが細かい刺繍が施されている)

文化協会は組合から土地をもらって独立して活動するようになっていきます。
ピメンタの成功で経済が安定していましたからね。
港も施設も道路も全てありました。

60年代にはトメアスーにさらなる土地
(2.5万~3万丁歩・東西10キロ南北25キロ)を購入しました。
これは国策による第2植民地の建設だったんですね。
当時は外国人には土地を売らないという決まりがあったので
トメアスー生まれの2世などを集めて彼らの名義で土地を買ったんです。
JICAの前身ジャミックがそれを買い上げて移住者に分割したんです。


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●(写真)資料館には移住者の生活がわかる様々なものが展示されている。これは教科書とそろばん。
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by amazontoshimin | 2011-07-25 07:40 | 日系社会のおはなし

トメアスーリポート5 トメアスーの歴史を聞く①

『十字路』(クアトロ・ボーカス)と呼ばれる交差点のすぐ近くに
トメアスー文化協会の建物があり、その2階が歴史博物館になっています。

ここでは、角田さんにトメアスーの歴史についてお聞きしました。
~印「」には、博物館のパネルの解説コメントを記しました。
また、★マークは角田さんのコメントです。

~開拓のはじまり~

「開拓のはじまり」
1929年南米拓殖株式会社の第1回移住者42家族がトメアスーに入植。
しかし南米拓殖株式会社は経営にゆきづまり、移住者は自立のためにアカラ野菜組合を結成しました。

「第二次世界大戦の受難」
戦争中日本人は軟禁され、産業組合へ発展した組合は州政府の管理となりました。
しかし戦後アカラ農民同志会の活躍により組合活動が回復し組合中心の自治が確立しました。

★リオ・デ・ジャネイロに資料があると思うんですが、
ここにイタリア人やドイツ人の家族も何家族かいたんです。
ドイツもイタリアも日本も戦争中はブラジルの敵国ですから収容所に入れられましてね。
そうそう、何年か前にドイツ人の旅行者がトメアスーに来たことがあったんです。
「祖父がアマゾンで日本人にだいぶ世話になった」って言っていました。
戦争中は、5人以上、3人以上集まってはいけない、
それから日本語の本を読んではいけないというものすごい規制があったんですね。
でもやっと戦争が終わりました。

青年会が発達して若者たちの集まりであるアカラ農民同志会ができたんです。
州政府によって自分たちの収入を不正に取られないように
青年たちが立ちあがったんですよ。
農作物の購買権と販売権を勝ち取ろうとしたんです。
まず手始めにアカラ川を航行する船を自分たちで作り上げたんです。
「ウニヴェルサル号」っていうんです。
船大工もいない中、たった一人いた大工さんにみんなが協力して作ったんですが、
知識も何もないわけですから大仕事ですよ。
(実際に船の建設に携わったサワダテルオさんが後年制作した模型も館内には展示されている)
処女航海ではベレンに行ったんですが20何回も故障しましてねえ。
大変だったと思いますよ。

しかしね、戦争に負けた国の移民さんたちが
戦勝国の仲間である国の政府と交渉して権利を勝ち得たなんていうのは
トメアスーの他にないんじゃないかな。
そういった意味でもこのころの青年たちっていうのは本当にすごかったと思いますねえ。


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●(写真)資料館のパネルには貴重な写真が飾られている
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by amazontoshimin | 2011-07-25 07:33 | 日系社会のおはなし

トメアスーリポート4 ついにトメアスーへ

時計は午前10時を少し回ったところ。

ベレンを出発して3時間半。比較的大きな街に差し掛かりました。
ブラジルでは運転手に言えば、自分が降ろしてもらいたいところで降りることができます。
でも私は、どこがトメアスーなのかわかりません。
一応終点で降りることになっていたのですがハラハラドキドキです。

近くに座っていた日系人風の女性に思い切って話しかけてみました。
するとその女性は、この日一晩私がお世話になる三宅さんの親戚の方だったのです。

Tさんというその女性はベレンの病院に入院している友人の見舞いの帰りだといいました。
冬休み中の孫3人を連れてトメアスーに戻るところだったのです。

Tさんは、1960年7月4日に日本を出港。
ブラジル丸に乗ってトメアスーにやってきました。
もう50年以上の月日が流れています。
今、故郷の日本では息子さんが働いています。
息子のいる日本にも行ったことがあるそうですが、
Tさんの身体には合わなかったようで、すぐにブラジルに帰ってきてしまいました。
息子さんは身体の調子があまりよくないんだそうです。
家族に会いたくてもなかなか会えないのはどんなにつらいでしょう。

終点のトメアスーバス降り場からさらに進み、
ブラジル銀行から2つ目のロンバーダ(スピードを抑えるための道路の突起物)を超えたところが
三宅さんのお宅です。
事前にメールで教えてもらった通り、
沢山の花に囲まれた素敵な家から昭子さんが手を振って出迎えてくれました。

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●(写真)たくさんの花に囲まれた素敵な庭がある三宅さんのお宅

娘さんの竜子さんと十字路近く(クアトロ・ボーカス)にある屋台に行き、昼食。
うどんやラーメンをご馳走になりました。
週末になるとこの屋台に日本人が集まってくるのだそうです。

ご飯を食べているとあちらこちらから日本語が聞こえてきます。
ここはまるっきり日本じゃないかという錯覚に陥りますが、
街にはポルトガル語の看板があふれ、
ブラジル人たちが自転車でバイクで通り過ぎていきます。

やはりここはブラジルなのです。

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●(写真)バス停にあったトメアスーの看板。

私は仕事で、アクレ州リオブランコ、
ロライマ州ボアビスタ、ロンドニア州ポルトベーリョ、
アマゾナス州パリンチンスとアマゾン地域の様々な場所を訪れてきましたが、
ここまで日本人率、日本語使用頻度が高い場所はありません。

アメリカ・カリフォルニア州の大学から移民の調査に来ていたババヨウコ先生も
一緒にお昼ご飯を食べました。
彼女は、サンパウロの近くにあるバストス市(卵祭りで有名)
などの日系人が多く住む街を見てきたそうですが、
やはりトメアスーは突出しているといっていました。

古き良き時代の日本がそのまま残っている街。
それがトメアスーなのです。

どうしてこんなに日本人の色が濃いまま、この街は発展してきたのでしょうか。

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●(写真)十字路でヨウコ先生、三宅さん親子と昼食。ラーメンにもうどんにもカツが入っている。
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by amazontoshimin | 2011-07-25 07:17 | 日系社会のおはなし

トメアスーリポート3 魚屋チャゲ&飛鳥

ベレンのホテルを5時半に起床。
6時過ぎに朝食をとって7時発のバスに乗りました。
バス乗り場には朝からいろいろな人たちが集まってきます。
故郷に帰る家族連れ、旅行を楽しむ学生たち、
仕事を求めて都会にやって来る男の人。スリにひったくり。ホームレスもいます。
早朝のバス乗り場はこんな大勢の人たちでごった返しています。

バスの行先がトメアスーであることを確認してバスに乗り込みました。
トイレ無しのバスでここから5時間の旅です。
話によるとこの路線には時々バスを襲う強盗が現れるんだそうです。
途中でバス強盗が出たらどうしようと心配になりながらも、
どこから乗りこまれても財布だけは靴下の中に入れようと心に決めました。

バスの中のテレビには、
現在ブラジルで大人気の女性歌手パウラ・フェルナンデスのライヴ映像が流れています。
国道316号線をバスはひたすら走ります。

一時間もすると街並みはどんどん緑が多くなっていき、
やがて緑の牧場、そしてジャングルへと姿を変えていきます。
うとうとしている間に大きな川に辿りつきました。
車や人を運ぶバルサという船に乗るために一旦バスを降りなければいけません。
川岸の船着き場には食べ物を売る屋台が並んでいます。

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●(写真)川を渡るときは全員バスから降ろされる。日射しがきつい分、川の上の風が気持ちよい。

ピラタと呼ばれる違法DVDが1枚2.5ヘアイス(約125円)で売られていました。
世界的に大ヒットした2005年のブラジル映画『フランシスコの二人の息子』の
モデルになった人気デュオ『ゼゼ・ジ・カマルゴ&ルシアーノ』のDVDが欲しかったのですが
やめておきました。
数十分後、バルサで川を渡った先には綺麗な街が開けていました。

毎日何台の車、何人のひとがこうやってこの川を渡るんでしょう。
川を渡ってすぐに目に飛び込んできたのは、
なんと『ゼゼ&ルシアーノ』という名前の肉屋(!)でした。
店主が『ゼゼ・ジ・カマルゴ&ルシアーノ』のファンなのでしょうか。
肉屋の名前にしてしまうところが驚きです。
日本でいうならば『魚屋・チャゲ&飛鳥』みたいな感じでしょうかね。変でしょう。

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●(写真)ここが肉屋「ゼゼ&ルシアーノ」
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by amazontoshimin | 2011-07-25 06:47 | 日系社会のおはなし

トメアスーリポート2 ナマケモノと泥棒

世界最大の流域面積を誇るアマゾン川の下流にあるのがパラー州です。
アマゾン川を上っていくと中流にアマゾナス州が位置しています。

さらに上流に向かうと、赤道を越えた北半球にあるロライマ州、
ペルーやボリビアとの国境を持つアクレ州、
そして近年開発が著しいロンドニア州があります。
一口にアマゾン川といっても上流には多くの支流があります。
ロライマ州にはブランコ川、アクレ州にはアクレ川、
ロンドニア州にはマデイラ川が流れ、アマゾナス州で合流、大西洋に向かって流れていきます。

河口のパラー州と中流のアマゾナス州。

同じアマゾン川が流れているだけあって対抗意識も強いと聞きました。
パラー州の人たちはアマゾナス州の人たちのことを『プレギッサ(なまけもの)』と呼び、
逆にアマゾナス州の人たちはパラー州の人たちを『ラドラオ(泥棒)』と呼びます。
日本の企業も多く進出して経済成長の著しいアマゾナス州マナウス市には、
現在も多くの人たちがパラー州から移り住んできています。
なるほど、アマゾネンシ(アマゾンの住民のこと)にとって
パラエンシ(パラー州の住民のこと)は仕事を取ってしまう『ラドラオ』かもしれませんし、
のんびりしている『プレギッサ』だから仕事を取られてしまうのかもしれませんね。

さて、私にとってのベレンの第一印象は古い街だなというくらいのなんともぼやけたものでした。
というのも初めて訪れた時は、日本語教師の研修会参加が目的で、滞在時間はわずか20数時間。
タクシーの中から見た街の印象で判断するしかなかったのです。

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●(写真)ヘプブリカ広場には屋台が並び、一日中ラテンのリズムが流れている。

ベレンで初めて乗ったタクシーの運転手はとても親切な人でした。
家族の話、仕事の話をする中で、車内で流していたDVDの音楽を誉めると、
降りるときにはそれをプレゼントしてくれたのです。
そのDVDは「フェルナンジーニョ」というアーティストのコンサートを収録したもので
ゴスペルミュージックと呼ばれる宗教色の強い音楽のDVDでした。

「ベレンは危険なところ。マナウスよりも汚い街。」という先入観で訪れた私でしたが、
会うひとはみんな優しいし、空港も大きくて綺麗だったしで
次に滞在するときはもっと長くいたいなあと思わせる街だったのです。

それから、約6ヶ月。

季節は雨季の終わりとなり、アマゾン川の水量もずっと増した頃、
再びベレンを訪れることができました。

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●(写真)パラー州の郷土料理タカカ。酸っぱいエビのスープにピリリと辛いジャンブーという野菜が入る。

今回の旅の目的はいくつかあります。
マラジョー焼きと呼ばれる焼き物の産地であるイコアラシー海岸や
手つかずの自然がそのまま残っているマラジョー島(面積は日本の九州と同じくらい。
それでも島と呼んでしまうほどブラジルは大きな国です)への観光がひとつ。
それから、ベレン郊外にあるお年寄りの施設「厚生ホーム」を訪れて、
おじいちゃん・おばあちゃんの前でワークショップを行うという目的もありました。

さらにもうひとつは、トメアスー訪問です。
80年も前に日本人が言葉もわからないままに
地球の反対側に海を越えて渡って作りあげた街を自分の目で見たいと思ったのです。

ベレンを出発するバスは片道5時間でトメアスーに到着します。

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●(写真)ブラジルの長距離バスは綺麗で快適。
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by amazontoshimin | 2011-07-25 06:34 | 日系社会のおはなし

トメアスーリポート1 はじめに

ブラジルはアマゾンのジャングルに
日本人が作った街があるのを知っていますか。

アマゾン川の河口にあるベレンから南に約230km入った未開の地に
日本人の移住が始まったのは1929年のことでした。
何もないジャングルを切り開き、米や野菜など農作物の栽培が始まりました。
しかしマラリヤに代表される熱帯特有の病気、暑さ、虫、作物の病気が
彼らの生活に影を落とします…。

トメアスーというこの街の住人は様々な困難と闘ってきました。
第二次世界大戦の間もその後も険しい道が続きます。

しかしながら、戦後は明るいニュースもありました。
1950年代に持ち込んだ胡椒の栽培が大成功したのです。
胡椒景気によって、多くのひとたちが大金を手にしました。

ところが、1960年代に入って、胡椒の病気が広がります。
トメアスーの冬の時代がまた始まりました。
この後トメアスーはどうなってしまったのでしょうか。

実は、現在トメアスーでは、カカオとアサイーと胡椒を同時に栽培するという
アグロフォレストリーと呼ばれる農業を積極的に取り入れています。
日本の食品メーカーにカカオを提供したり、ジャムやジュース作りを導入したり、
計画的に経済的に発展し続けている魅力的な街が今のトメアスーです。

前向きな考え方を持った人たちが未来のトメアスーのことを一生懸命に考えています。

豊かな自然の中で逞しく生きていくトメアスーの人たちとお話していると
いろいろなことを考えさせられます。

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●(写真)トメアスー市内に残る病院跡。廃墟にジャングルの植物がからみつく。
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by amazontoshimin | 2011-07-25 06:22 | 日系社会のおはなし