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トメアスーリポート7 トメアスーの歴史を聞く③

~社会・経済の変化~

「第2トメアスーの研究」
日本政府の海外移住振興政策により第2トメアスー移住地が建設されました。
1962年に第1陣が入植しました。

「胡椒の病害と作物の転換」
1970年代から胡椒の病害が蔓延し、
多くの人々が新しい胡椒栽培地を求めてゆきました。
また胡椒の探索農業が反省され、カカオやマラクジャが盛んに栽培されました。

★1970年代中頃、ピメンタの景気は終わってしまいます。
フザリオウゼという病気が大流行したんです。
でも負けるわけにはいきませんからいろいろなことに挑戦しました。
第3トメアスーを建設しよう。ピメンタももう一度栽培してみよう。
熱帯果樹のマラクジャやクプアスも植えてみよう。
それだけでなく、移住後、一番最初に植えていたカカオにももう一度挑戦してみようと、
バイア州産の持ち出し禁止だったものを何とか交渉して栽培しました。

トメアスーというのは日本人家族1000家族を目指していたんですがね、
目標に到達することなく80家族程度で終わってしまいました。
今残っている人たちは隣の耕地を買い取って自分の土地を大きくしていますよ。


~明日に向かって~

「インフラの整備と近代化」
陸の孤島だったトメアスーにも道路が通じ、
電気・電話等のインフラが整備されていきました。
1979年には入植50周年祭も盛大に行われました。

「世代の交代」
近年のトメアスーでは世代交代が目覚ましく
今日では日系2世が中心となって組織運営や農業の確立に取り組み、
トメアスーの明日を築きつつあります。

★60周年の記念に寄宿舎を建設したんです。
一階が日本語教室と日本語学校。二階を男女の寄宿舎にしたんです。
でもね、完成したころ通学バスがトメアスーの奥のほうまで開通してしまった。
だから使う生徒は少なかったですね。
ホテルの代わりに寄宿舎に泊まる人が多かったです。
研究者や旅行者など2000人以上が使用しましたよ。

今思うと70年代後半ピメンタ景気に浮かれて、
後に残らないようなお金の使い方をしてしまったと思いますね。


~トメアスー農業のあゆみ~

「開拓初期のころ」
開拓初期にはカカオが植えられました。
しかし熱帯地域での農業に不慣れなため、うまくいきませんでした。
そこで米や野菜を作りベレンで販売しました。

「胡椒栽培の発展」
第二次世界大戦後は胡椒栽培が盛んになり、
最盛期には5000トン以上生産される産業へと発展しました。
長くトメアスーの中心作物でしたが、病害が栽培に大打撃を与えました。

★昔は、ブラジルには結球するような葉物の野菜、
つまりレタスやキャベツなどはなかったんですね。
現在、ベレンはブラジルの中でも野菜の消費率が高いんです。
野菜を食べる人が多いんですよ。

それはアマゾンでは絶対に育たないと言われていた野菜を
研究に研究を重ねて日本人が栽培して、
その食べ方をブラジルのひとたちに教えたということなんです。


~トメアスー総合農業協同組合ジュース工場~

「CANTAのジュース」
現在、工場ではマラクジャ・アセロラ・クプアスー・アサイ・
グラビオーラ・タベレバー等のトロピカルジュースを製造しています。

「ジュースのできるまで」
生産者が収穫した原料はその日のうちに工場に集荷され、
洗浄・搾汁・冷凍処理されます。出来上がった製品はベレン等で販売されています。

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●(写真)丁寧にわかりやすく説明して下さった角田さんと資料館の入り口で。
機会があったらぜひ訪問していただきたい。



博物館を見学した後に角田さんが見せてくださったのは
「アカラ植民地英霊録」と書かれた一本の巻物でした。
1929年の入植以来、この地で亡くなったかたの名前と年齢、
お亡くなりになった理由が書き添えられています。
年齢を見ると生後わずか数カ月、数年で命を落とした子どもたちが多く、
先人たちがアマゾンの厳しい気候やマラリヤなど
熱帯特有の病気と壮絶に戦ってきたことが伺えます。

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●(写真)熱帯の地で命を落としたひとたちの記録「アカラ植民地英霊録」
by amazontoshimin | 2011-07-25 07:52 | 日系社会のおはなし