トメアスーリポート10 我らが大地トメアスー

トメアスー文化協会の乙幡敬一会長によると
現在のトメアスーの人口は約6万人。そのうち学生の数が2万人。
日系人は300家族1500人が住んでいるということです。
高齢化も進み70歳以上の方は140人を超えました。

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●(写真)文協の乙幡会長と。ベレンでの新年会での私のライヴパフォーマンスを誉められ恐縮。

理事の方たちは、お仕事もしながら文化協会の運営もしているので大変です。
クリスマスなどのイベントの他、
ビジネスとしての農業教育にも真剣に取り組んでいます。
その結果がアグロフォレストリーという環境に優しい農法に結びつきました。
積極的にワークショップを開いて農業の勉強をしてきたのです。

トメアスーの街をよくするために文化協会が尽力してきたため
犯罪件数も20年前に比べてぐっと減ったそうです。
パトカーが12台もある地方都市はなかなかありません。

文化協会で、ジュース工場で、胡椒の畑で、農作物の倉庫で、
あらゆるところのあらゆる人たちからトメアスーに対する郷土愛を感じることができました。

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●(写真)トメアスー市内の風景。犯罪件数の多いブラジルとは思えないほどのどかだ。

2010年の8月、マナウスにある近所の教会で
トメアスーから来たという女性と知り合いになりました。
その後すぐにネグロ川を渡ったベラビスタ移住地の盆踊りでも再会し、
2011年1月ベレンで行われた日本語教師の合同研修会でも
再びお会いすることができました。
今回のトメアスー滞在で泊めていただいたのがその方、三宅昭子さんです。

昭子さんは1962年20歳でブラジルに渡り、
渡伯後半年で結婚しました。
ブラジルに渡ってすぐにマラリヤにもかかりました。

同じ船で日本から来た姉のように慕う方をマラリヤで亡くし、
その2ヶ月後婚約者の父も56歳の若さで命を落としました。
また結婚後半年後には14歳の妹が自殺と
ブラジルに渡ってわずか1年で近親者を3人も失ったことになります。
ブラジル行きの船の中でいただいたという聖書を宝物のように大事にして、
そこから生きる力をもらっていたのだそうです。

自宅では娘の竜子さんと一緒に日本語教室も開いています。
竜子さんは、マナウスの西部アマゾン日伯協会で教えていた経験もあり、
現在はトメアスー市内のABC幼稚園の園長先生でもあるのです。

三宅家の広い庭には熱帯の植物がずらりと並んでいます。
丁寧に育てられた庭の作物が食卓に並びます。
昭子さんが趣味で続けている俳句は、
いろいろな大会で受賞するほどの腕前。
棚にはトロフィーが所狭しと並んでいます。
お亡くなりになったご主人は、大工さんをしていたとのことで
裏庭には当時の作業場が残っていました。
機械類はすべて売ってしまったそうです。

私の父方の祖父は、教会の牧師をしていたため、
祖父母は長野や三重の伊賀上野など日本各地の牧師館を転々としていました。
また、母方の祖父は天竜市で製材業を営んでいたので
祖父母の家の前には大きな製材工場がありました。
教会の匂い、製材工場の匂い。
トメアスーにいると自分の幼いころの記憶が猛烈に蘇ってきます。
日本の数10年前の匂いがいまだに残る素敵な街なのです。

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●(写真)手入れの行き届いた庭にはカメが放し飼いになっている。

昭子さんが奥からゴソゴソと何かを持ってきました。
それは、ある方が書かれたトメアスーの歌が載った楽譜でした。
残念ながら私は楽譜が読めません。
もうひとつの楽譜にはコードが載っていたので、
私のギターに合わせてこちらを一緒に歌うことにしました。
「ブルーシャトー」という古い日本の歌謡曲に昭子さん自身が歌詞を書いたものです。

実際は3番まで歌詞があります。



夢と希望と憧れを
胸に抱いてアマゾンへ
緑の地獄と呼ばれし奥地
言葉、衣食住、病気、習慣

わが先人は耐え抜いて
豊かな大地を勝ち取りぬ

涙で頬も濡らしたでしょう

互いに励まし信じあい
耕し続けた
花胡椒

我らが大地トメアスー

わずか1泊2日の短い旅で
82年もの歴史がある街について書くのは少々無謀でしたが、
私はあっという間にその魅力に取りつかれてしまいました。
トメアスーの凄さは住民から溢れるエネルギーにつきます。
いつかまたゆっくりトメアスーを訪れてその歴史にどっぷり浸かりたいと思います。

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●(写真)ジャッキー三宅とトシミコメッツ。歌はブルーシャトートメアス編。テイク3!
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by amazontoshimin | 2011-07-25 09:16 | 日系社会のおはなし